n秒間


 急速に意識が研ぎ澄まされていくのが分かる。随分長い間、眠っていたのだろうか?
まぶたは重いが、もうすぐ開くことができそうだ。そのまぶたを通して、もう光を感じ
ることができる。
 ふと、体が不安定なのに気が付く。今まで味わったことのない感覚だ。だが、それを
不安に思うことはない。むしろそれは、光に満ちた未来への序曲だと信じて疑わない。
父と母が育んでくれたこの体は、それを得るにふさわしいのだ。

「……るよっ! まりさっ! はやくっ!」
 何やら騒がしい。ただ、それが意識下で聞き慣れた声だというのは分かる。母親の声
だろう。
 はた、と、気がついた。私は生まれようとしているのだろう。両親は、その準備をし
ているのか。無理もない。自らの大切な分身である私が生まれようとしているのだ。両
親にとっては一大事。大騒ぎにもなろう。

 不意に、ガクッと大きく体が揺れたかと思うと、次の瞬間、私は全身に浮遊感を感じ
ていた。それが輝ける一生の始まりを意味していると知っていた私は、既に微笑を浮か
べていたことだろう。
 あの重たかったまぶたが上がる。初めて見る外の世界の光景だ。正面に見えるのは
……。そうだ。私と同じ『ゆっくり』だ。両親が大切に埋め込んだこの体の餡子が、そ
れを教えてくれている。私よりは比べ物にならないほど体の大きいそれは、成体の『ま
りさ』種だ。そう、恐らくは私の父親だろう。

 多くの知識を産まれながらに持っている私達『ゆっくり』というのは、実に優秀な生
物だと言えよう。私はその『ゆっくり』であることを誇りに思う。そしてその優秀さに
ふさわしい輝かしい道が、今の私の前には開けているのだ。
 まずはその知識を生かして、両親に挨拶をするのだ。優秀な生物『ゆっくり』である
私は、やはりその優秀な規範に従わなければならない。生まれた直後に両親に挨拶がで
きる生物など、この優秀な『ゆっくり』以外にはいないだろう。

 思い出すまでもない、その『ゆっくりしていってね!』という挨拶を口に含み、それ
を発するタイミングをうかがう。もうすぐ。あと少しだ。
 と、妙なことに気が付いた。どうやら、父親は私の方に駆け寄ってきているようだ。
しかも、それはそれは必死の形相で。
 何故、そんな形相をしているのだろう? 我が子の素晴らしい一生が幕を開けたとい
うのに。何故、喜びの表情を浮かべてはいないのだろう? 全く、愚かな父親だ。

 突如、全身に耐え難い激痛が走った。さっきまでの浮遊感も、もう感じられない。激
痛のあまり体をよじらせようとするが、それさえもままならない。体が動かないのだ。

 仕方無く、目をこらして状況を確認しようとするが、さっきよりも明らかに視界が狭
く、そして暗い。それでもなんとか、父親の顔は認識できる。
 父親が何かを叫んでいるようだ。
「お……づぃ……び……」
 何だろう? 言葉が遅過ぎてよく分からない……。

 意識が薄らいでいくにつれ、視界もさらに暗くなっていく。父親の顔が酷く歪んでい
るのが分かる。なんて醜い顔だろう。やがてさらに視界は暗くなり、やがて完全な暗黒
になった。

 私は、その視界と同様に、自分の輝かしい道がもうすぐ終わるのを悟った。

 父親の声はまだ続いていた。
「ぢゃ……あ……ぁ…………」
 が、それも途中で聞こえなくなった。

 微かに残る意識の中で、あの醜い父親の顔を再び見ないで済むのだと思った私は、少
しばかり幸せな気分になった。

 そして、残った僅かな意識さえも、闇の中へと溶けていった。

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