今だから話せる後悔

 チーム瑞原螢のメンバーの内の何人かの、実はとても後悔している話などをこっそりと。
 人生後半を迎えたメンバーが、自らの気持ちの整理を兼ねて。



瑞原螢一(新宿通りミエ / 紅龍 / 旧名:風見螢 |『チーム瑞原螢』主宰)の場合
 学生時代からプログラマであり、(『I/O』誌などの)投稿者であったり、藤島聡(当時、及び、コンパイル社在籍当時のペンネームは『ぱっくまん』。現フューパック社長)氏とも知り合いであったりと、それなりに名前が知れていた事もあり、父親の伝でハドソン社から「ウチに来ないか」と誘われた事があった。が、明確な返事をしないままにしてしまった。
 実は、当時は一人でゲームを作る事にこだわっていたため、その時点でゲーム会社に入るという事に気が進まなかったのだ。
 そして現実として、今現在、ビデオゲームというのは(コンピュータの進化と共に)一人で作るにはあまりにも規模が大きくなってしまった(それでも、できないほどではないのだけれど)。コンピュータとゲームの進化の速度を予測できなかった、あの頃の自分を後悔
 ちなみに、藤島氏が当時運営していた『TAFマイコンクラブ』の名挙(『名誉』ではない:藤島氏の命名)会員でもあった(同時に、藤島氏も私達が運営していた『SENZOKU GAMERS CIRCLE』の会員でもあった)ため、『JEMINI』広野(当時、コンパイル社プログラマ)氏や『MOO』仁井谷(当時、コンパイル社長)氏ともお互いに知り合いではあったのだが、実際に会ったのは、ゲームチャージ誌の取材で広島に行った際が初めてだった。

 日本最初のプロゲーマでもあったが(一般に、日本最初のプロゲーマとしては梅原大吾氏が知られているが、これは『トーナメントプロ』としての最初であって、レッスンプロ/ティーチングプロ、アクタープロ等としては、氏以前にも多数が存在している)、ゲーマ以外としてゲームに関わる事を捨て切れず、結果としてどっちつかずになった事を後悔
 ちなみに、プロゲーマとしての最初の仕事は、ゼータ制作のゼビウスのビデオの監修で、アクタープロとして名前が出た最初の仕事は、ゲーメスト在籍中のビクター音楽産業の『ナムコの伝説』だった。
 ゲーメスト誌の創刊スタッフで、名付け親でもあったのだが、後には新人の編集部員を取材現場に連れて行くという仕事も多くするようになった。そんな中、誌上で『グラディウス』の特集を組むに至って、『グラディウス』の名プレイヤとして有名な『めぞん一刻』(スコアネーム)こと高見明成氏と同行する事になった。高見氏は実は正式な編集部員ではなかったのだが、その後も度々取材に同行するなどしたりという事もあり、懇意な間柄だった。
 勿論、高見氏がそもそも人懐こい性格だったというのも当然の理由だったのだが、かなり後に設けられた当時のゲーム関係者の同窓会でも、久しぶりに会ったにも関わらず、互いに『am/pm』でアルバイトしていた事があるという奇妙な共通点から話が盛り上がったりという事もあった。
 そんな彼も、若くして亡くなってしまった。そして、彼に限らず、ゲーム関係者の多くが若くして亡くなっている。変死だったり、自殺だったりという人もいた。そんな彼らの一人一人と、まだまだ沢山話したい事はあったのにと後悔

 ゲーメスト誌がようやく軌道に乗り、多くの新人編集部員が入ってきた頃、自分の(アーケードゲーム誌の立ち上げという)役割を終えたと感じ、編集部を辞める事を決意した。そして、ある日、それをゲーメスト出版元の新声社の副社長の高橋己代子氏に伝えたところ、号泣された。女を泣かせたのはこれが初めてだった。
 結局、社長に「風見も考えた末にそういう結論を出したんだろうから」となだめられ、高橋氏は一応落ち着いた。その後もしばらく慰留されたが、結局、ゲーメスト誌から離れる事にした。
 しかしその後、ライター経験のある編集部員が次々と抜け、ゲーメスト誌を含めた新声社の運営方針が妙な方向へ向き、その後に紆余曲折はあったものの、最終的に倒産/廃刊を迎えた。
 あの時ゲーメスト誌から離れずにいたら、まだまだ刊行を続けられていたかも知れないと思うと、あの時の判断を後悔

 ゲーメスト誌から離れた後、ゲーム関連は同人/依頼商業レベルで活動していたのだが、そんな中で懇意にして戴いた中の一人が、天才ゲームデザイナとも知られていた『MTJ』三辻富貴朗氏だった。
 実はゲーメスト誌在籍時代に『ダライアス』の紹介記事、『バブルボブル』の攻略記事を担当した時からの知り合いで、『ダライアス』初期バージョンのバグ(ボスの弾が当たっても死ななくなる)をリリース直後に一番に報告した事や、(同人/投稿レベルだが)ゲーム製作活動を長く行っていた事を三辻氏が知っていたため、目を掛けて戴いていたのだ。
 ある年の三辻氏の年賀状には、「近々、ゲームスクールを開校しますので、風見さんにも是非、講師として参加して欲しいです」と書かれていたこともあった。恐らくは、お世辞も含まれていたのだろうが、それはそれは嬉しいものだった。
 そんな三辻氏も、若くして亡くなってしまった。自分がもう少し近くにいて、三辻氏の体調を気遣っていればあるいは、と後悔

 ゲーム製作下請け会社から依頼されて作成に関わったゲームの一つに、PCエンジン版『ロードランナー』(パックインビデオ社発売。ハドソン社の『バトルロードランナー』ではない)があった。言わずと知れた名作ゲームの移植だが、その中で敵アルゴリズムの作成、全面デザイン、テストプレイを担当した。
 敵アルゴリズムを左右非対称にするなど、(マニアックな)フィーチャーを入れたりしていたが、なんとか全面完成、テストプレイで全面クリアを確認してマスターアップした。
 しかし製品版が出てみると、なんと金塊を全部取っても梯子が出現せずクリアできない面があるとの事。驚いて製品版をHu9(PCエンジンの開発機で、PCと繋ぐ事によってデバッガとなる)で中身を覗いてみると、その面の画面外にあたる場所に金塊が置かれている。なるほど、これでは画面内の金塊を全部取っても梯子は出ない。が、テストプレイは全面キチンと行ってクリアしていたし、その場にいたその下請け会社の社長とプログラマも確認していたので、何故マスターアップ後に製品となるに至ってそんな事が起きたのかは謎で、三人で首を傾げていた。
 その後、実は当時のパックインビデオ社内には内紛があり、派閥の一つがが対立する派閥に対する嫌がらせのためにマスターを弄ったという話が明らかになった。
 下請けだったとは言え、自らが関わったゲームは最後まで監視するべきだったと後悔

 『チーム瑞原螢』や『Novembers』の人間は、戦争の事をよく知っている。だから、世界がたった一人の行動程度では簡単に変わらない事も知っている。私もその一員だからよく知っている。でも、正しい判断ができなかったことには後悔する。思い返してみれば、なんと後悔の多い事か。人生の中で何連敗を喫しているのか。もしかしたら、世界を変えられる人を何人も救えたかも知れないのに。

霜月命(霜月晃 / 夢野綾香 / ぷらなり家弧延落 |『チーム瑞原螢』副代表)の場合
 同人小説(ヤヲイだけど)の執筆長く続けていた事もあって、中には「ファンです」と言ってくれる読者も少なからずいて、多少なりとも自分の書く文章には自信が有った。
 そんな中、主宰に誘われて商業誌のライターに。でも、商業誌ライターとしては『弩』の付く初心者。投稿者上がりで商業誌ライター経験の長い主宰やリエとの実力差は歴然。些細なプライドを粉微塵に砕かれた上、主宰に徹底的に駄目出しされ泣きながら原稿を手直し続ける日々が暫く続いた。
 身の丈に合わない商業誌なんかに手を出さず、ヤヲイ同人だけでヌクヌクとしていれば良かったと、遠い昔の判断を後悔

瑞原螢子(霜月美樹子 / Thira CLONE / あき中尉 / 淡島通りリエ)の場合
 我々、物書き/物描きの世界では有名で、とあるジャンルでは日本では第一人者という方と、あるオンラインゲームを通じて知り合った。やがて色々な交流を経て、親友と言って良いほど懇意にして戴いた。
 ただ、仕事の忙しさのあまり健康診断を受けなかったというある僅か1年の翌年、彼女に病気が見つかった。手術を行い、投薬治療も続けていたが、ある日、容態が急変して亡くなってしまった。
 あの忙しそうだった時、「仕事を休んででも健康診断に行け」と煽っておけば、もしかしたら早期に病気が見つかり、亡くなることはなかったのではないかと  日本はこの偉大な才能を失わないで済んだのではないかと  思うと、とてつもなく耐え難い後悔


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