今だからこそゲームミュージックの話をしよう

 昔のゲームミュージック好き人間の、愚痴っぽい話など。
 かつて私自身がン十年前に某紙上で書いた「ゲームとは、プレイする映画である」という言葉を信念として見た場合のゲームミュージック観から、決して自己主張し過ぎないサウンドトラックとしての名曲ゲームミュージックを考えてみる。
 昨今のアニソンの多くも(タイアップとかが多くて、アニメとほぼ無関係な歌詞だったりして)そうなんだけど、音楽が自己主張し過ぎて、ゲームミュージックとしてそぐわない曲が多くなっている。そんな中、敢えて『ゲームの演出として』名曲と言えるゲームミュージックを独断で取り上げてみたい。
 勿論、独断だから、作曲者の意図とは違っているかも知れない。でも、それはプレイヤとして感じた事だから、プレイヤとしての真実。
 ゲーム自体の話もちょこっとだけ。本気でやり始めると長くなるからね。
 余談。「ゲームとは、プレイする映画である」では、「初めてプレイするゲームにおいてはプレイヤは映画の主人公であり、攻略法を持ってプレイするゲームにおいてはプレイヤは演出家である」という話をしていた。



サイコニクス・オスカー(アーケード:データイースト:1987年)
 ゲームを開始すると、登場シーンに相応しい堂々たるイントロ。……と思いきや、アクションシューティングに相応しい疾走感あふれるメインテーマ(『PHYCHONICS GENERATION』)。ステージBGMが複数あっても全て同じテーマのアレンジというのは、実はデータイーストの定番だが、このサイコニクス・オスカーも同様。ただ、それは決して手抜きというわけではなく、統一された明確な世界観を表現している。
 もう一つのステージBGM(『HARD RUSH』)も、厳しい戦いを表現しながらもメインテーマを踏まえている。
 そして、最終ステージBGM(『LAST SPARK』)。プレイヤの不安感と焦燥感を煽るような音楽も最終ステージのお約束だが、それだけではない。プレイヤが敵の激しい攻撃に晒されて孤独感にさいなまれている時、かすかに聞き覚えがあるフレーズが耳に届いたような気がする。いや、確かにあのフレーズだ。そう思った時、まるでプレイヤを応援するかのように高らかに、あのメインテーマが奏でられる。「俺はまだ戦える!」とプレイヤは勇気づけられるのだ。
 そしてエンディング(『RETROSPECT』)。ゲーム中とは異なる、開放感と安心感に満ちたイントロに、敵基地の爆発音が重なる。プレイヤが、ゲームをクリアした達成感と共に、ゲームが終わったことに対する少しばかりの寂しさを感じている頃、そのタイトル通り、メインテーマがひとくさりされ、プレイヤを労ってくれる。そのままゲームオーバー、ネームエントリーの音楽へと続き、プレイヤは心地良くゲームを終わる事ができる。

 名作ゲームミュージックが多いデータイーストだが、プレイヤへのメッセージが明確に表現された今作は、その代表とも言える。


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